わたしの小さな窓

風がカーテンを揺らす

顔を覚えられない人

相貌失認(そうぼうしつにん)と言う脳の障害があるそうだ。

人の顔を覚えられないのだ。

 

先日観た「百日の朗君様」に出てくる男性の脇役が相貌失認の設定で、そのせいで物語が都合良くこじれるのだけど。そんなドラマの重要な設定にチョイスされるほど、相貌失認というのは世間に広く認められた障害だったのかな?

 

相貌失認という症状に、軽度や重度があるのかは知らない。

私は、子どもの頃から、なかなか人の顔が覚えられない。

服装や髪型が変わると判別できなくなることが多々あった。

 

中学2年の時、大幅に遅刻して登校すると、皆は音楽室か何かに移動して授業を受けていて教室は空のはずが、教室の後ろに掛けてある皆のコートのポケットを探っている男子が居た。私は確かにその男子を見たのだけれど、後から生徒指導の先生に色々写真を見せられて指名するように言われても、知らない男子生徒だった事しか思い出せなかった。同じ中学の生徒なのだから(その頃1000人規模の中学校)その後も会っていたかもしれない。でも、覚えていないのだから会っても思い出せるわけがない。

 

若い頃、知っている男の人の車だと思って助手席に乗り込んで話しかけて、相手の驚いた顔を見て間違った事に気づいた。乗る前に、ちゃんと確認したつもりだったんだけどね。

 

水商売で一度来店したお客様の顔と名前は忘れないとか、指名手配の写真によく似た人が居たから通報したとか、心の底からすごい!と思う。

 

顔だけじゃなく名前も覚えられない。電話番号も難しい。

新しくパートに出た時には、職場の人の特徴をノートに書いて密かに学習した。

それでも、体格が似ていて年齢が似ていてムードが似ているOさんとKさんを即座に判別するに1年以上かかった。

今の職場は、体格が似ていて眼鏡のNさんとSさんの区別が怪しい。

でも、NさんOさん私服に着替えると、センスの違いで見分けがつけ易くなる。

 

 

先ず、男か女か、大体の年齢

その他、体格の特徴

顔の特徴

声や喋り方の特徴

歩き方しぐさの特徴

大まかな分類の上に

相手から話しかけてくれて

髪型は変えない人

こう言う人は覚え易い。

 

考えてみると

私は人と目を合わせるのが苦手だ。

自ら描いた線があってそれを越える事を避けてきた。

人はヤスリのようだから近づけばゴシゴシ削られる。

殻の弱い私は、そんな危険冒したくない。

 

顔を覚えたい、

覚えるためには近づかなくてはいけない。

関心を持って接しなければいけない。

関心?

関心なんか無い、かも。

 

好きな人は好きだけど

苦手な人が多い私には

なかなかハードルが高い。

 

日暮れ時 帰り道 ちょっとだけまわり道

日が沈むちょっと前の時間から

薄闇が漂う時間まで

なんとなくくたびれた人が行き過ぎる歩道

朝の荷物に疲労が染み込み

ずっしり重くなる

 

だけどこの風

体の熱を拭う風が気持ちよくて

もう少し外にいたい

 

必死に誰かを探して

一緒にいなくてもいい

一人もいいし

一人じゃなくてもいいし

いっそのこと今日は

一人でいる方がいい

 

夕暮れを抜けて到着するエアポート

この電車に乗れば

海を染める夕焼けが見れるかな

駅舎の片隅でコーヒーを飲んで

折り返して帰ってきたら

きっともう夜だね

 

行かない旅を想像する

翼は風

とこまでも飛んで行ける

 

体の中に

いつも燃える塊を抱えていた

それは怒りだったり

恋愛感情だったり

理不尽な悲しみだったり

自分でコントロール出来ないものに

引き摺られ振り回され

ひーこらひーこら

 

それが若さってものだったのね

 

 

無いものねだりはしない

帰ってこないものは帰ってこない

知っているから無駄に悩まない

今この手に有るものが

全て零れ落ちてしまうまで

この手に有るものを

静かに眺めていよう

 

いい風が吹いて

今日の一日に

いい終わりをくれる

満ち満ちて

溢れ出て

笑みになる

 

 

 

暑い日

8月は、お盆と夏休みと高校野球終戦記念日。暑い夏。

 

昭和2年生まれの父は志願して17歳で戦争へ行った。視力の良さと腕の長さを買われ戦闘機の射撃手になった。その戦闘機は、敵と戦闘する事無く故障して南の海に沈み、父と上官は泳ぎたどり着いた島で数日後に救助された。

 

私が小学生の頃、父が自身の戦争体験を綴った手記を読ませてくれた。ただ一度の事だったし、その後父と母は別々に暮らすことになり私は母に付いていったので、それきりその手記の行方はわからない。

 

戦争を経験した大人達の中で育ったのに、私の身近の人達は戦争をあまり語ろうとはしなかった。

 

夏になると、長崎と広島の原爆投下と終戦の日が巡り、強い日差しに影が濃くなった庭の樹木の陰に何かが潜んでいて覗き込んではいけない世界があるような気持ちがした。ニュースの画面から聞こえる重苦しい程に重なった蝉の鳴き声や黙とうする人々の額から滴り落ちる汗。

 

 75年経った今も戦没者の遺骨の収集が続けられていると言う。思いは引き継がれ、きっときっと楔になると思いたい。

 

多くを語らなかった大人達は、自分の痛みを子や孫に伝えることより、戦争から回復していく世の中で、それが当たり前に育っていく子らに平和と平穏を見ていたのかもしれない。

 

そして私(達)、「戦争を知らない子ども達」も平和な世の中で十分に年を重ねた。私達は次世代に何が残せただろう?

 

 

過不足の無い暮らし

過不足の無い暮らしを送っている・・・

 

こう思えるようになるのには

 

随分と長い時間がかかった。

 

努力家ではない私に、そうそう良い事ばかりは起こらない。

 

口を開けて待っていても棚から牡丹餅は落ちてこない。

 

 

 

 

年をとって

 

あまり腹が立たなくなった。

 

今でも文句たれの本質は変わってないけれど

 

子どもの頃からの無力感や行き場のない感情

 

そんなものが

 

薄皮を剥ぐように無くなって

 

素の自分でも良いと思えるようになった。

 

最近は「生き辛さ」を感じて生きることも

 

世間が認めてくれるし、

 

人と違うことは個性と言ってくれる。

 

「友達百人」作れなくても

 

「友達いらない」でもいい。

 

 

 

年をとったので

 

体のあちこちにガタが来ている。

 

でも、外で働けないほどではない。

 

子どもたちもそこそこ幸せに生きているようだ。

 

夫も枯れた。

 

互いに譲歩出来るようになった。

 

 

 

母がもうすぐ死ぬけれど

 

母が望むように

 

子より先に死ぬのだからそれでいいと思う。

 

 

 

お金がもう少しあれば

 

もっと楽な暮らしが出来たかもしれないが

 

そんなに無くても暮らしてこれたのだから

 

このまま夫婦のパートの賃金と少な目の年金できっと事足りる。

 

 

 

今更、過分な福は要らない。

 

必ずその対価を支払うことになるのだから。

 

程々がいい。

 

身の程にあった

 

この過不足の無い暮らしがいい。

 

 

 

  

 

 

小さな窓

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一つ、窓が欲しくなった。

 

その窓を開けて

 

心の中に吹く風を送り出したくなった。

 

風?

 

そんな大げさなものじゃないけど。

 

日々過不足の無い暮らしの中で

 

ふっと沸き起こる思いを

 

留めずに解き放ちたくなった。

 

なんかいい事があったとき

 

知らず知らずに笑みを浮かべている

 

その笑みのような

 

誰のためでもなく

 

何のためでもないのだけど。

 

手の中の温もりで

 

緩やかに押し出す

 

微かな風

 

私の思い。

 

先ずはご挨拶。

 

 

今夜、私の小さな窓を開けました。